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2007/12/28

フルトヴェングラーかカラヤンか?その6 お題「第九交響曲」

さてさて、今年最後の更新になるか、まだ書くか、の瀬戸際ですが・・・

お題>ベートーヴェン作曲 交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」

フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団、同合唱団、シュヴァルツコップ、ヘンゲン、ホップ、エーデルマン、1951年バイロイト祝祭劇場でのライブ収録

もう方々で散々語りつくされた感のあるフルトヴェングラーの1951年バイロイト盤、バイエルン放送のお蔵入りテープからの掘り起こしというCDが手に入りましたので、そちらと、元々EMIから出ていた通常盤を駆け足で聞き比べながら、この記事を書いております。

デジタル・リマスターのおかげで、どちらの盤でも、音質そのものに大きな不満はないのですが、やはり、細かな音のバランスは、ライブ収録のせいもあって、想像するよりほかありません。とはいえ、全体の音作りは、前回述べた「コリオラン」と、そう大差はないでしょう。弦楽器を主役にすえた、オーケストラのバランス、そして、主旋律、対旋律などの「出す音は出す。引っ込める音は引っ込める」の対比作り、リハーサルに相当時間を費やしたとされる人なので、細かい部分の楽器の出し入れは、リハの時に完全に固めているのでしょうね。そのせいもあって、音楽全体の骨格だとか、メロディーの推移、といったこと、つまり音楽を「聴かせる」仕事は、実演一発勝負なら、やはりカラヤンより数段も上のように感じます。フルトヴェングラーのライブを聴き終えたお客さんは、会場を後にしても、音楽の個々の場面、メロディーが、はっきりと胸の中に印象として残る、カラヤンの場合は、全体を通しての、すごい音響や、棒さばきは印象に残っても、具体的にどこどこが良かった、とは言いにくいんじゃないかな?

片山、このCDは小学6年の時に買いました。それ以来20年、自分の中での「第九」のスタンダードはフルヴェンでした。それだけに、この演奏に関する思い入れも多々あるわけです。とはいえ、この場でそんな思い入れを語っても仕方がない。というのは、私自身、数々の音楽体験や、楽譜の読み込みを進めた結果、最近はフルトヴェングラーのベートーヴェン解釈にある種の疑念を感じてしまうからなのです。

もっとも端的で分かり易いのはテンポ取り(つまり速さの解釈)でしょう。まあ、これはフルトヴェングラーに限らず、どの指揮者にも必ず「解釈」と称した、楽譜という事実からの捻じ曲げが存在する・・・誤解して欲しくないのですが、これは決して全てにおいて悪いことだとは思っていませんよ。ある時は聴衆への分かり易さの為に、またある時はオーケストラや合唱団の技量にあわせる為に、こういった「解釈」は必要でしょう。ただ、フルトヴェングラーのそれに疑念を感じるのは、そのテンポの取り方に、ベートーヴェンより、フルトヴェングラー自身の人間性を前に押し出そうとする印象を与えるからです。なぜって、楽譜を読むまで、私はフルトヴェングラーのテンポ取りこそ、「第九」の最もふさわしい解釈と信じて疑わなかったんだから。

具体的にどこがどう、という話はいずれまたいたします。結論から先に書かせていただくと、この演奏は「ベートーヴェンの第九」というよりは「フルトヴェングラーの第九」であり、フルトヴェングラー自身も作曲家だったのですから、まさに、自分とベートーヴェンとの合作・・・良い言い方をすると、どこまでがベートーヴェンでどこからがフルトヴェングラーか分からぬくらいの渾身一体の演奏と捉えることができます。勝手な憶測ですが、おそらく19世紀のワーグナー、マーラーらも、部分的な解釈こそ違えど、指揮の方向性はこういったものだったのでしょう。

意地悪く言えば、「ベートーヴェンをダシにして、自分(指揮者)の実力を見せつける。」・・・このブログの中で、私がどこかで書いたことの繰り返しです(笑)・・・ようやく結論らしきものが見えてきましたね。次回にまとめます。

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