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2007/10/26

フルトヴェングラーかカラヤンか?その4 お題「コリオラン」

今日は後攻、フルトヴェングラーの番です。

お題>ベートーヴェン作曲 序曲「コリオラン」作品62

フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー、1951年ミュンヘン・ドイツ博物館・コングレスザールでのライブ収録

最初にお断りします。私の聴いている音は、CDで市販されているものと同一じゃありません。一旦HDDに落とし、音楽(波形)編集ソフトで自分好みにマスタリングし直してます。どうしてもモノラル音源をステレオ装置でかけると音楽が奥へ引っ込んだみたいに味気ないんで、私は気が向くとそうしてます。フルトヴェングラーの場合、録音が古いので、出てきた音が、演奏者の意図なのか録音のせいなのか、イマイチつかめない部分も多数あります。今回はある程度そのあたりを加味しながら、でも最終的には無視する、という大変手前勝手な方法をとらせていただきますが、何卒そのあたり、ご了承下さい。

演奏家は誰しもそうなのですが、若い時と老いたる時では、経験、体力、発想力、技術力全てにおいて変化するので、その演奏スタイルというのは、年代によって変わってきます。もちろん個人差はありますが、フルトヴェングラーの場合、その差がかなり顕著に出ているように思います。今日取り上げる録音は1951年、フルトヴェングラー65歳。普通の指揮者なら、最も脂の乗った時期ですが、戦前のフルトヴェングラーの演奏スタイルを知った方には、どちらかというと、枯淡の境地(物足りない、とも言う)なのでしょうね。やはり、彼にとって、第二次大戦はあまりにも重い鉄鎖だったのでしょうか?・・・ま、私はどっちもCDでしか知りませんが(笑)

全体に遅めのテンポを終始崩すことなく、彼特有のテンポの大きな変動もそれほどは感じさせません。とはいえ、第1テーマのテンポは四分音符=144くらい、何てことはない、カラヤンと同じなんですね。ただし、第1テーマ部分のテンポ変動もやはりカラヤンより大きいです。ヴァイオリンのアーティキュレーションはよく表現されて、細かい緩急の付け方が巧みです。スタッカートは切れ味の鋭いナイフのごとくスパっと行きますが、ティンパニの相乗効果もあって決してペーパーナイフのようにぺなぺなではなく、出刃包丁のように重厚です。

もちろん、かつての「フルトヴェングラーらしさ」も健在で、第2テーマではグッとテンポが落ちるし、そこからクライマックスにいたる部分(CDで2:16~)にも、アッチェレランド(段々速く)がかかり、また、カラヤンと違い、ゲネラルパウゼは楽譜指定より長めにとっています。ファンにとってはこれこそが、フルトヴェングラー音楽の深遠と捉えられる部分です。

全体から感じられるデモーニッシュさ、熱っぽさに、異論を差し挟むつもりは全くないのですが、カラヤンの演奏の後にこれを聞いた私は、ちょっとばかり別の感想を持ちました。

「ん?響きが薄くねぇ?」

録音のせい?

違うなこれは・・・

意図的なフルトヴェングラーの音作りのように思われます。

その他のフルトヴェングラーの演奏でも感じるのですが、彼のメロディーの歌わせ方には、類まれなる独特のものがあります。「むせび泣くような・・・」と言われる、アレです。しかし、その反面、対旋律はともかく、管弦楽の中で、例えば和声だけを受け持つパートや、伴奏形を繰り返すパート、つまり、音楽の中の「チョイ役」「通行人A」は意識的に切り捨てているような気がしてなりません。ほとんど話題にも登らないしね。

「コリオラン」を例にとっても、例えば3:59からの、木管の持続音だとか、7:29からの、うねるような低弦とか、意図的に弱く弾かれているため、録音が悪いのと相成って、奥に引っ込んでいます。多分ライブではちゃんと聞こえているのでしょうが。少なくともカラヤンのように、「全部出してやる」のようなアプローチではないですね。「出すものをとことん出し、あとは見切る」と言うやり方です。

これは、良いことか悪いことか?もちろん良いことです。少なくとも、ライブでしか音楽と触れ合えない当時の聴衆にとっては、この方がグッと効果的だと思います。つまり「間引き」して聞かせる事によって、聴衆には一番大事なものを一番印象付けられますからね。聴衆の大多数はスコア(楽譜)なんぞ読まないし、極端な話、作曲者の意図なんぞ、演奏家がどう捻じ曲げようと殆どの聴衆は気づきゃしない。「おもしろければ」それでいいんですよ。もちろん、フルトヴェングラーは、当時そうやってショー化されていたクラシックの演奏界を、ギッチギチに批判していたけど。

演奏だけを単純に取り上げれば、フルトヴェングラーのそれは、男性的で、迫力があり素晴らしいと思います。でも、スコアを読みながらベートーヴェンの音世界を想像している者がフルトヴェングラーを聴くと、鳴って欲しい音が鳴っていなくて、肩透かしを食わされるのです。カラヤンの演奏は一見(一聴?)甘ったるく聞こえますが、その実、スコアどおりで、ベートーヴェンの「意図」はこちらの方がより鮮明に表現されています。

フルトヴェングラーもその事は十分承知していたでしょう。彼はこう考えた。「一回限りの演奏で全部の音を汲まなく表現すると、聴衆は音の洪水で聞き分ける事が不可能になる、そのためのデフォルメ(誇張)は必要だ。」と。私の憶測ですよ。でもそう考えると、大げさなテンポ変動も、ヴァイオリンの「すすり泣き」も、主旋律だけを徹底的に聴かすやり方も、スコアには存在しないティンパニの強奏(6:04付近)も、彼独自に「聴衆のために」考え出した「テクニック」だと言う事ができる。表現上の必然とは別のものね。意地悪く言えば「客ウケ」を狙いに行ってる、といえなくもないんですよ。

結論は次回に持ち越します。それとも、もうひとつお題を作った方が良いか・・・。

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